前回、ソフィア外語学院で教えようとしている英語とその価値について書きました。

たぶん、理屈っぽい人は、ソフィア外語学院で教える英語がそんなに価値があるのなら、学校でもそれをやればいいではないかと考えるに違いありません。

アメリカにNASAがあるのなら、日本にも同じものを作ればよいのに、なぜ日本はNASAを作らないのか?

・・・と言う議論です。

先日、アメリカの原子力潜水艦の映画を見たのですが、日本にもこういう原子力潜水艦がたくさんあれば、安心して海水浴に行けるに違いないと私も思いました。サメが出たら、トマホークを発射して、追い払うといいです。

しかし、ミサイルって一本いくらするのか・・・と考えたら、ぞっとしますよね。ミサイルは1本5千万円とか一億円とか、それ以上します。サメ一匹追い払うのに一億円はちょっと高いです。

となると、たぶん原子力潜水艦は一隻一億円ぐらいでは買えないのではないかと愚考致します。何しろミサイル一本だけであの値段ですからね。たらいにミサイルを載せて、ぷかぷか水に浮かべても、たぶん原子力潜水艦とは言わないでしょう。原始力潜水艦という名前になってしまいます。

本物の原子力潜水艦をフル装備で100隻、200隻と買ってきたら、ずいぶん費用がかさみますね。たぶん、消費税を100%にしても足りないかもしれません。何よりも、無人では動かないので、人を訓練して、中に入れないといけませんよね。人件費はいくらぐらいになるのでしょうか?だれが訓練するのでしょうか?

英語教育も、これと同じような問題があります。

昔、文部科学省が小学校での英語教育に本格的に取り組もうとして、TOEIC900点以上の人を大々的に募集したことがありました。全然集まらないので、すぐに挫折していました。

確かに、まともな英語教育を行うとなると、TOEIC900点以上が最低ラインになるので、ちゃんとお役人さんも認識はあるのだと感心したものですが、何でTOEIC900点以上だと小学校で英語を教えたいと思うのかと言うあたりで現実的ではありません。

TOEIC900点以上になると、どうして小学校に行って、ぴーぴーうるさい小学生に英語を教えてみたいと思うのでしょう?

そう言う変わった人生設計をする人を何万人も募集するなんて、さすがに親方日の丸でも無理ですね。考えるまでもありません。頭が上下逆にくっついていないかと心配になります。

問題のソフィア外語学院で教えるような精密な英語をなぜ学校でやろうとしないのかですが、最大の理由は、そんなことができる教師を何万人も集められないからです。

つまり、制約があるからです。できないものはできない。そう言うことです。

前の記事を読めばわかると思いますが、TOEIC900点ごときで、ソフィア外語学院でやっている授業ができるわけではありません。TOEIC900点の3倍とか、5倍とか、10倍ぐらいの英語力が必要だと思います。TOEIC900点ですら、人がまるで集まらないのに、その何倍もの英語力の人間なんて、100年かけても集まるわけがないです。

だいたい、TOEIC900点や英検1級ごときでは、まともな英語なんて書けません。そう言う人たちの書いた変な英語を直すのが、毎日の私の仕事になっています。

まともな英語が書けるようになったら、やれるというわけでもありません。それをはるかに超えるレベルでなければ、人にまともな英語を教えるなんてことはできません。野球で、玉を投げたり、打ったりできるようになったからと言って、野球の監督やコーチが務まるわけではないのと同じです。

しかも英語の場合、関係する学問の知識が必要になりますから、スポーツの監督やコーチに比べ、ハードルがずっと高くなります。世の中に一人や二人はいるかもしれませんが、100人とか200人とかは、考えられないでしょう。

さらに、そんな人の中で、子ども相手に英語を教えたいと思う人がどれぐらいいるのかという話になると、かなり絶望的です。

例えば、私が学生だった頃、英語教育を専門にしている先生は何人かいました。例えば、若林俊輔先生とか。この先生、基本的な応用言語学の知識が欠けていました。全く不勉強です。しかも、性格がずいぶんひどく、大学の教師になる前に数年間高専で教えていたらしいのですが、その時に生徒に刺されそうになったとかいう話を聞いたことがあります。いったいどういう性格をしていたら、生徒に刺されるのでしょうね(笑)。

田中春美と言う先生は、正しい英語を幼稚な英語に直していました。英語力が全然足りません。直すというのは、よりよい英語に直して初めて意味があります。その逆では意味がありません。人の英語を直すというのは簡単なことではありません。だから、単に正しい英語が書けると言うだけでは、全然足りないのです。それよりずっと上のレベルから、人の英語が判断できないと、教えることは無理なのです。

しかも、この先生はまじめすぎて、楽しい授業ができません。英語の授業は楽しくないと、効果があまり期待できません。そう言う点でも適任者は限られます。まあ、若林俊輔先生が教えると、普通に、みんな逃げ出すと思います(笑)。それに比べれば、まだましです。

こういう様に見ていくと、ソフィア外語学院でやっている様な授業ができるという先生は、滅多にいないことがわかると思います。小学校、中学校、高校でこれをやるのは、到底無理です。たぶん、米軍とかCIAならできるかもしれませんが・・・。

確か、若林俊輔先生は、授業中に、「米軍で日本語を習った人が、『私の名前はスミスと言います。』と、まるで日本人の様に発音をして、驚いた。」という話をしていたことがあります。米軍ならこれぐらいのことができるのかもしれませんね。日本国政府が出している英語教育の予算とは、まるで金額が違いますから。

ちなみに、普通の米国人が日本語を普通に習うと、「スミス(su-mi-su)」ではなく、「Smith」と英語の発音で発音してしまいます。こういうのはだめな日本語です。少なくとも、日本語の発音の指導はできません。

膨大な予算をほんのわずかな人数の生徒に使える米軍と、少ない予算で膨大な人数の生徒を教えなくてはいけない日本の英語教育では状況がまるで違います。

じゃあ、ネイティブ・スピーカーが教えればいいのではないかと思うかもしれませんが、確かに、ネイティブ・スピーカーなら、英語が話せますが、普通、ネイティブ・スピーカーが話す英語というのは、わかりやすく言うと、乞食の英語です。教養のない馬鹿が話す英語です。

意味がわからないかもしれませんが、よく考えてみてください。日本語でもそうでしょう。教養のない馬鹿が書いた日本語というのは、読めたものではありません。ましてや教科書にはできません。英語の場合も同じで、教養のない馬鹿のネイティブ・スピーカーが書いた英語なんて、読めたものではないし、ましてや教科書にはできません。

そう言うわけで、ネイティブ・スピーカーに教えさせるとなると、教養のある知性の高いネイティブ・スピーカーでないといけません。それに加えて、関係する学問の知識がしっかりないとだめです。

しかし、日本に英語を教えに来るネイティブ・スピーカーというのは、大工レベルです。実際、名古屋の公立中学に英語を教えに来た人は、大工でした。どうして一流大学をトップで卒業したような人で、応用言語学、英語学、音声学、心理学、教育学などの関係する学問をしっかり修めた人が採用できないのでしょうか?それは、名古屋市が最新鋭の原子力潜水艦を大量に保有できないのと同じ理由です。

だいたい、高校の先生でも日本語を書かせると、読めたものではありません。実際、某有名高校の社会科の先生が書いた本を読んだことがありますが、校閲が入らず、そのまま印刷された章はまるででたらめな日本語で、ひどいものでした。まともな日本語が書ける人は、恐らく1000人に一人もいません。

英語の場合はもっとひどいです。そもそも、英語のネイティブ・スピーカーなんて、英語を書くどころか、教科書の英語すら読んだことのない人がほとんどです。まともな英語が書けるような英語のネイティブ・スピーカーは、恐らく何千人に一人ぐらいで、極めてまれだと思います。

全ての条件がそろうネイティブ・スピーカーなんて皆無に等しいと思います。

制約はそれだけではありません。正しい英語を教えるには、徹底的に直していかないといけません。大量生産型の教育ではできません。絶対に1対1か、少人数制のクラスにしなくてはいけません。外国語の授業が少人数制でなくてはならない理由の一つがこれなのです。人数は少ないほど英語を直す時間が取れますので、効果が高くなります。しかし、小学校や中学、高校でこれを実行するとなると、教師の数が10倍、20倍、30倍、40倍必要になります。そんな予算はない上に、TOEIC900点以上の数倍の英語力を持つ先生をそれだけの数集めるのは、たぶん1000年以上かけても無理です。そもそもいないので(笑)。

米軍やCIAは教える人数がごくわずかですから、一人か二人、どこかからさらって来ればいいわけです。あ、それはどこか北方の国がやっている方法でしたね(笑)。

そう言う制約面での問題が大きい一方、言語学の世界では1960年代から、「間違った英語」でOKという考え方が広まりました。つまり教養のない馬鹿の話す英語であっても、それは間違った英語ではなく、そう言う英語なのだという発想です。

この考え方が1970年頃から英語教育に入ってきたので、間違っていても、直さなくていいという考えになってきたわけです。そのため、一般大衆を対象にした公教育などでは、間違った英語が放置される様になりました。

それは英語に限った話ではなく、日本語でも同じです。「食べれない」は間違った日本語ですが、みんなが使っているからいいのではないかということです。そのみんなというのは、教養のない馬鹿のことですが・・・。

英語にも似たようなことは多々あります。「I feel bad.」は正しい英語ですが、「I feel badly.」は間違った英語です。しかし、みんなが「I feel badly.」と言っているので、それでもいいのではないかと言うことです。その「みんな」というのは、教養のない馬鹿のことです。

「bad」を「bad worse worst」のように変化させるのは正しい英語ですが、「bad badder baddest」という変化は間違った英語です。しかし、たくさんの人が「bad badder baddest」と言う変化をやります。だから、それでもよいのではないかと言うことです。確かに、こういう英語も通じます。しかし、こういう変化形を使う人は、みんな、教養のない馬鹿ばかりです。

言い方を変えると、英語には、正しい英語とか、教養のある英語とか、美しい英語とか言われる英語があります。前回、私は精密な英語と言いましたが、同じものを指します。その一方で、間違った英語とか、無教養な英語とか、汚い英語があります。私は、わかりやすいように、乞食の英語と言うことがありますが、同じことです。

確かに、科学的には、どちらが上というわけでもありません。しかし、大企業の社長が乞食の英語でホームページに所信を書いたら、教養のない、馬鹿で、乞食の人間が社長をやっていると、みんな、普通に思うでしょう。そう言う英語に対する需要はないので、そう言う英語には経済的な価値がありません。その一方で、教養のある、正確で、精密な、美しい英語には、高い需要があるので、経済的価値が高いのです。

しかし、習得は困難です。なぜなら、教養がなく、馬鹿な人間が人口のほとんどを占めるからです。教養が高く、正確で、美しい英語を話し、書く人が人口のほとんどを占めていれば、習得は簡単なのですが、逆なので、難しいのです。また、逆に、それだけ希少なので、プレミアムがついていて、印象がいいとも言えます。

まあ、乞食の英語をよしとする英語教育は、狂っているのですが、先に述べた制約があるので、仕方がないとも言えます。正当化できるのは、実際に、その点だけです。しかし、価値のない事を教える教育というのは、まるで価値がありません。その点を忘れてはいけません。

問題は、こうした低質の無価値な教育のために、間違った英語を覚えた場合、なぜ、その後、改善が不可能なのかです。

それは、その乞食の英語が身に付いてしまうと、直せないからです。応用言語学では「化石化」などと言ったりします。仕組みは、方言が直せないというのと同じです。もし直ったとしたら、それはまれなことで、普通は、直せません。読めないような日本語しか書けない様な日本人は、いくら頑張っても、美しい日本語が書けるようにはなりません。

作品名は二重カギ括弧でくくりましょうと言っているのに、大人になっても、「夏目漱石の(こころ)」などと書く様な人は、永久に経済的価値が高い、教養のある、正確で、美しい日本語が書けるようにはなりません。

最初が肝心で、最初にどんな英語を化石化させるかで、後の英語力が決まってくるわけです。しっかり英語を習得してしまったあとで、その英語を根本的に変えると言うことは、到底無理です。外国語を学習する人は、このことをよく覚えておくべきです。

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